今日もキッズのアクセサリーをつくっていた
雑貨的陶芸家tinker×3もみぃちゃんだよ

子ども英語の活動も
まだイベントには参加できないので
アクセサリーを委託店のなんどさんに
お預けするための準備をしている
結局は思うように活動できない隙間を
どのように埋めるかということばかりを
悩んで決めてきている
仮定の話よりも現実をどうするかだと
言い聞かせて自問自答のこたえを
むさぼっていくしかない
針と糸を使うのは初めてだが
フリーステッチならわりと慣れた先週だった
すごい成長だよ(╹◡╹)
と自画自賛して今週がスタートできた
☆
もうひとつの子ども英語活動のことは
余計な噂が噂をよび
塾やどこかで働いているんだろとか
突然言われたりして困惑している
事実ではないけれど
関係のない話だろうと
気持ちに余裕のない日々ではキレそうになる
まあいつもそうだ
言いたい人には言わせておくしかないし
流すくらいの成長はしてきたつもりの
この5年だったかなぁと振り返る
5年?
といっても
厳密には5年の陶芸活動のうち3年くらいは
1年のうちの3カ月くらいしか
やっていなかったので
結構おおきく見積もっていることになる
陶芸活動歴何年とかいう話も
聞かれるので仕方ないから
それくらいはカウントしとくかって話で
本来なら必要ないことだ
その目に映るものや感じるもので
判断すればいいんじゃないかなと
ホントは思っている
背景がないと不安なのは
見る目の自信のなさでしかない
もしくは無駄話が趣味か
あえてえぐって角をつくるくらいの
芸術的姿勢で生きたいわたしなので
そんな毒舌な一面もある
☆
子ども英語には
もちろん毒舌はいらないよな
真反対の適正を志すと
それはじぶんでも混乱してくると
思うときもあるんだけど
つくっているときはただ無心である
かわいいリボンが好きなわたしもわたし
粘土をガンガンやっているのもわたし
毒舌も優しさも対局ではくて
芯のところは繋がっている
☆
活動していると望まない別れが多い
ちょうどそういう時期なのかな?
それとも時代の変化の節目を
みているのだろうかと思ったり
変化の決断は
わたし自身も積極的にしていくべきだ
学生の時から常に2、3の仕事を
短いスパンで繰り返しつづけ
何に刹那な人生の時間をかけたいのか
見出したくて生き急いできた
それはものすごく本能的なもので
計画性とはいつも無縁である
陶芸がすでにいちばん長い仕事なんだなあと
内心しみじみする気持ちと
相変わらず急ぐ気持ちと
その中で出会う人との別れや変化は
ポジティブにとらえる力を身につけたいと
今年はとくに強く思わされている
☆
ちっちゃい時からずっと
この場に身を置きながら
目の前の人とすら世界が分かれている
孤独のような諦めのような違和感があった
それは埋められるもんでもないと
ほぼ生まれたときから悟りの世界があった
会話というよりは空気感で
その先や前や本質がわかってしまった
瞬時に裏がわかってしまうような
世界がはじまっていた
事実や現実のみならずその裏の世界でも
無意識のうちに傷つきながら
世界を漂ってきたような気がする
そういうことを正のエネルギーに変えられる
絶対的なものをきっと求めていくのだろうと
わたしはずっと思っているし
ずっとそのちいさな頃からのわたしとして
生きていくしかないのだと思う
☆
いつも出会う人になぜか守られていた
傷つけようとする人と守ろうとする人が
いつも絶対にセットでいた気がする
どちらにもはっきりとした理由はなくて
それぞれがなぜか徹しているような
不思議な関係性が出会った瞬間からある
ほとんどの人は早いスパンで
どこかに行くので
人に基準は任せられないと思った
受け身でも流動的でもなく
絶対的にコレだというものを抱いて
迷いなく生きることが
生きる充実になるだろうと思っている
それが陶芸なのだろうか
だとしてももう2、3はあった方が
景色が豊かだけれどそれは英語ではない
☆
例えるなら英語は
親が無理やり持たせたお弁当のようなものだ
そういう平凡な職業には息がつまる
理由はわからないけれど
捨てるのも後味が悪いから
そっと持っているような感触がある
持っている妥協点として
子ども英語という活動はどうかなと思った
そういうセンシティブな話を
語ってもわからそうなヤツに限って
土足で踏み入ってくるときに
心底、人間っていやだなとあきれる
あきれながら
ウソでもない事実をなぞるように
人間の言葉を探すときがある
雑貨的陶芸家tinker×3もみぃちゃんだよ

子ども英語の活動も
まだイベントには参加できないので
アクセサリーを委託店のなんどさんに
お預けするための準備をしている
結局は思うように活動できない隙間を
どのように埋めるかということばかりを
悩んで決めてきている
仮定の話よりも現実をどうするかだと
言い聞かせて自問自答のこたえを
むさぼっていくしかない
針と糸を使うのは初めてだが
フリーステッチならわりと慣れた先週だった
すごい成長だよ(╹◡╹)
と自画自賛して今週がスタートできた
☆
もうひとつの子ども英語活動のことは
余計な噂が噂をよび
塾やどこかで働いているんだろとか
突然言われたりして困惑している
事実ではないけれど
関係のない話だろうと
気持ちに余裕のない日々ではキレそうになる
まあいつもそうだ
言いたい人には言わせておくしかないし
流すくらいの成長はしてきたつもりの
この5年だったかなぁと振り返る
5年?
といっても
厳密には5年の陶芸活動のうち3年くらいは
1年のうちの3カ月くらいしか
やっていなかったので
結構おおきく見積もっていることになる
陶芸活動歴何年とかいう話も
聞かれるので仕方ないから
それくらいはカウントしとくかって話で
本来なら必要ないことだ
その目に映るものや感じるもので
判断すればいいんじゃないかなと
ホントは思っている
背景がないと不安なのは
見る目の自信のなさでしかない
もしくは無駄話が趣味か
あえてえぐって角をつくるくらいの
芸術的姿勢で生きたいわたしなので
そんな毒舌な一面もある
☆
子ども英語には
もちろん毒舌はいらないよな
真反対の適正を志すと
それはじぶんでも混乱してくると
思うときもあるんだけど
つくっているときはただ無心である
かわいいリボンが好きなわたしもわたし
粘土をガンガンやっているのもわたし
毒舌も優しさも対局ではくて
芯のところは繋がっている
☆
活動していると望まない別れが多い
ちょうどそういう時期なのかな?
それとも時代の変化の節目を
みているのだろうかと思ったり
変化の決断は
わたし自身も積極的にしていくべきだ
学生の時から常に2、3の仕事を
短いスパンで繰り返しつづけ
何に刹那な人生の時間をかけたいのか
見出したくて生き急いできた
それはものすごく本能的なもので
計画性とはいつも無縁である
陶芸がすでにいちばん長い仕事なんだなあと
内心しみじみする気持ちと
相変わらず急ぐ気持ちと
その中で出会う人との別れや変化は
ポジティブにとらえる力を身につけたいと
今年はとくに強く思わされている
☆
ちっちゃい時からずっと
この場に身を置きながら
目の前の人とすら世界が分かれている
孤独のような諦めのような違和感があった
それは埋められるもんでもないと
ほぼ生まれたときから悟りの世界があった
会話というよりは空気感で
その先や前や本質がわかってしまった
瞬時に裏がわかってしまうような
世界がはじまっていた
事実や現実のみならずその裏の世界でも
無意識のうちに傷つきながら
世界を漂ってきたような気がする
そういうことを正のエネルギーに変えられる
絶対的なものをきっと求めていくのだろうと
わたしはずっと思っているし
ずっとそのちいさな頃からのわたしとして
生きていくしかないのだと思う
☆
いつも出会う人になぜか守られていた
傷つけようとする人と守ろうとする人が
いつも絶対にセットでいた気がする
どちらにもはっきりとした理由はなくて
それぞれがなぜか徹しているような
不思議な関係性が出会った瞬間からある
ほとんどの人は早いスパンで
どこかに行くので
人に基準は任せられないと思った
受け身でも流動的でもなく
絶対的にコレだというものを抱いて
迷いなく生きることが
生きる充実になるだろうと思っている
それが陶芸なのだろうか
だとしてももう2、3はあった方が
景色が豊かだけれどそれは英語ではない
☆
例えるなら英語は
親が無理やり持たせたお弁当のようなものだ
そういう平凡な職業には息がつまる
理由はわからないけれど
捨てるのも後味が悪いから
そっと持っているような感触がある
持っている妥協点として
子ども英語という活動はどうかなと思った
そういうセンシティブな話を
語ってもわからそうなヤツに限って
土足で踏み入ってくるときに
心底、人間っていやだなとあきれる
あきれながら
ウソでもない事実をなぞるように
人間の言葉を探すときがある
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