今日もとある病院の待合室で更新中
雑貨的陶芸家tinker×3もみぃちゃんだよ
ギャラリーのあいまに
どうしても予定が密集するよね〜
そうだずっと話してなかった友だちとも
ながら電話をしようかなとか
創作してないときのわたしはそんな感じ
☆
ガラスのパーツづくりは日課のように続き
創作していないといっても
創作の準備をしていないわけではない

ガラスに関しては何度か焼くことの方が多い
ある意味陶芸の真逆な部分もあって
そこがまた不思議っていうか
異世界なところだと思う
第一段階の焼成をしておいて
使いやすいようにしておくことで
よりよい創作になるんじゃないかと
独学だけどそれはわかる
あと膨張係数というものがあって
ガラスならどれでも組み合わせ自由ではなく
ビンはもちろんガラスだから焼けるけど
このビンとそのビンは一緒にしない方が
いいだろうとか思うわけである
(膨張係数がわからないもの同士は
一緒にしないのが鉄則だというのが持論)
☆
陶芸とおなじでなにを表現の媒介としても
創造力以上に想像力がないとつづかないし
どこかで見たようなものしかできない
どこかで見たものに感動は覚えないし
わくわくしないんじゃないかなと思う
どの分野もそうだと思う
教わったことをそのままやっても創造性はなく
そこからどうじぶんらしい表現を加えるか
そこがひとつの大きな分かれ目だと思う
基礎は大事
でも基礎をも超える想像力は
すべてを育てる力があると思う
学ぶことの枝葉は基礎を超える想像力で伸びる
なんてちょっとまじめに思う^^
☆
「陶芸講座とか?」なんて身に余る打診には
わたしはつくる側だからと答える
勝手な理想だけど教える側にまわるなら
すべての手のうちを明かしてもいい
という覚悟っていうかな
つまり作家として生徒と張り合う気のない
そういう域になった場合するべきだと
個人的には思っている
体験ワークショップくらいなら?
という線引きもあるけど
それだって責任重大なことだと思う
その人が陶芸を好きになるか
陶芸はムリだったと思わせてしまうか
ワークショップにかかっているわけだから
ギャラリーにいて
いろいろな人の陶芸体験の話を聞くうちに
思慮深すぎる免疫もできてしまったようだ
ワークショップは
流れ的に取り入れていきたいのだが
どの程度なら良心が痛まないで
好奇心の窓口になれるかな
という気持ちでいたいなと思う
雑貨的陶芸家tinker×3もみぃちゃんだよ
ギャラリーのあいまに
どうしても予定が密集するよね〜
そうだずっと話してなかった友だちとも
ながら電話をしようかなとか
創作してないときのわたしはそんな感じ
☆
ガラスのパーツづくりは日課のように続き
創作していないといっても
創作の準備をしていないわけではない

ガラスに関しては何度か焼くことの方が多い
ある意味陶芸の真逆な部分もあって
そこがまた不思議っていうか
異世界なところだと思う
第一段階の焼成をしておいて
使いやすいようにしておくことで
よりよい創作になるんじゃないかと
独学だけどそれはわかる
あと膨張係数というものがあって
ガラスならどれでも組み合わせ自由ではなく
ビンはもちろんガラスだから焼けるけど
このビンとそのビンは一緒にしない方が
いいだろうとか思うわけである
(膨張係数がわからないもの同士は
一緒にしないのが鉄則だというのが持論)
☆
陶芸とおなじでなにを表現の媒介としても
創造力以上に想像力がないとつづかないし
どこかで見たようなものしかできない
どこかで見たものに感動は覚えないし
わくわくしないんじゃないかなと思う
どの分野もそうだと思う
教わったことをそのままやっても創造性はなく
そこからどうじぶんらしい表現を加えるか
そこがひとつの大きな分かれ目だと思う
基礎は大事
でも基礎をも超える想像力は
すべてを育てる力があると思う
学ぶことの枝葉は基礎を超える想像力で伸びる
なんてちょっとまじめに思う^^
☆
「陶芸講座とか?」なんて身に余る打診には
わたしはつくる側だからと答える
勝手な理想だけど教える側にまわるなら
すべての手のうちを明かしてもいい
という覚悟っていうかな
つまり作家として生徒と張り合う気のない
そういう域になった場合するべきだと
個人的には思っている
体験ワークショップくらいなら?
という線引きもあるけど
それだって責任重大なことだと思う
その人が陶芸を好きになるか
陶芸はムリだったと思わせてしまうか
ワークショップにかかっているわけだから
ギャラリーにいて
いろいろな人の陶芸体験の話を聞くうちに
思慮深すぎる免疫もできてしまったようだ
ワークショップは
流れ的に取り入れていきたいのだが
どの程度なら良心が痛まないで
好奇心の窓口になれるかな
という気持ちでいたいなと思う
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